エジプトで現在作られて食べられている米は日本系のお米だという話は以前別の項目で書きました。
エジプトのお米(調理前)
現在については大体分かったのですが、それ以前のエジプトの稲作・米ってどうだったのだろう?という件について簡単にですが調べてみました。
稲の種類
おしえてミツハシくん!-お米の知識- > 稲の種類
お米は、植物界・被子植物門・単子葉植物網・イネ目・イネ科・イネ属・イネに分類される植物のタネです。
世界中でイネ科イネ属に属しているものは20数種類が知られています。でもそのほとんどが野生種で、栽培されているのは、アフリカイネ(学名:オリザグラ ベリア)とアジアイネ(学名:オリザサティバ)の2種類です。主にアフリカイネはアフリカ大陸のニジェール川流域で栽培され、アジアイネは世界中で栽培さ れています。
リンク先に分類表があるのでそちらもご参照ください。
大雑把に言うとアフリカイネから取れる米は中粒でやや丸い形をしています(日本米は短粒種)
アフリカイネとアジアイネ
JICAの記事より。日本が支援している新品種ネリカ米について。池上彰さんが、現地で稲作の指導にあたる坪井達史さんに、稲作についてのお話を聞いています。
食料の問題(前編) | 池上彰と考える!ビジネスパーソンの「国際貢献」入門
アフリカの食の未来は、米が作る!
Newsweek誌が選ぶ「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた、「ミスターネリカ」こと坪井さんの精力的な農業指導のお話を聞きながら、アフリカの食料問題に対する国際協力のあり方について、いっしょに考えていきましょう。
坪井 1992年、コートジボワールに派遣されてからです。このコートジボワールで後にネリカ米となる 種間交雑種に出会いました。当時同国にあった西アフリカ稲開発協会(現アフリカ稲センター、WARDA)を訪れたとき、こちらの温室内で西アフリカ・シエ ラレオネ出身のモンティ・ジョーンズ博士に「アフリカ稲とアジア稲を交配して初めて稔実した籾です」と3粒の籾を見せてもらったのです。これが生まれたば かりのネリカ米でした。興奮しましたね。それまでは、アジア稲とアフリカ稲は種が異なることから交配しても不稔となり種子が得られなかったので、3粒稔実したことは画期的なことだったわけです。
池上 アフリカにも、もともと稲があったんですね。従来のアフリカ稲とネリカ米では、どのくらい生産量が違うのですか?
坪井 収量を従来のアフリカ稲と比較すると、1ヘクタール1.5トン未満だったのが、ネリカ米だと、1ヘクタール3~5トン。従来と比較して2~3倍の収量が見込めるようになりました。
必要な部分だけ抜粋しましたが、面白い記事なのでリンク先で全文ご確認ください。
このように、アフリカで元から作られていたアフリカイネは、アジアイネに比べて収量が低かったのがわかります。
一方、陸でも育つ事や、気候に合っているという利点がありました。
アフリカ各国ではアフリカイネとアジアイネが混ぜて作られていた。
現在JICAはネリカ米の栽培について、アフリカへ農業支援を行っています。(ネリカ米の場合、十分な灌漑施設がなくても、肥料の大量投与がなくても、栽培が可能)
※エジプトの場合はナイル川の豊かな水があったりダム建設による農地改革があったりしたのもあって、日本種を元にした水稲が導入されている。元々アジア種の稲が栽培されていたのだと思われる。
今回知りたいことにほぼジャストミートの論文がありました(ただしエジプトには触れていない)
エジプトはイスラム・アジア分類されていることも多いのでそっちの方面から当たったほうがいいのかも。
アフリカのイネ, その生物史とアジアとの交流の歴史
熱帯農業研究/6 巻 (2013) 1 号/書誌
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nettai/6/1/6_18/_article/-char/ja/
(右メニューに全文PDFあり)
京都大学学術研究支援室所属のかたの論文で、2013年なのでかなり最近です。
わかったこと
アフリカイネはマリのニジェール川内陸三角州で,2~3千年前(4千年前とも)に栽培化され,そこからセネガル,ガンビアやギニアビソウの沿岸部,シエラレオネとアイボリーコーストのあいだの森林地帯へと拡大した(Linares,2002)
アフリカ大陸のイネは古代からあった、コメを食べていた。
後述されている話によると、アジアイネの導入時期や経路ははっきりしていない。
近代のアフリカの稲作についてはこう触れられている。
植民地時代の稲作改良は限定的で,宗主国のイギリスやフランスは稲作よりも熱帯産の商品作物開発に熱心で,住民の食料である米や根菜類の改良にさほどの関心を示さなかった.なかでも生産性の低いアフリカイネの改良はほとんど手つかずで,植民地期その後の独立期を通じてアジアイネの改良が細々と進められた.
日本による熱帯アフリカ諸国への稲作技術協力は1974年のタンザニアやケニアを対象国としたキリマンジャロ農業開発協力から始まったが(後略)
エジプトの説明ではないが、恐らくイギリス支配下にあったエジプトも同じような状況だったのではと考えられる。
この記事の最初に挙げた以前の記事「エジプトのお米(調理前)」で調べたJICAの支援についての記録を再び参照します。
稲作関係について、JICAの活動報告のピックアップ
エジプトの米は日本から-エジプトの農業と稲作、日本の協力-(その2)
2008年10月22日
エジプトの米は、1917年にYabani(ヤバニ)という品種名の日本のジャポニカ米を元に品種改良が進められました。「ヤバニ」はアラビア語で「日本」 です。中でも、1954年、Yabani M47がNahdaと命名されてエジプト政府の栽培奨励品種となり、約20年間、エジプト稲作の基幹品種となりました。一時は、全作付面積の95%に普及 したほどです。その後、同品種を親として育成されたGiza171及びGiza172が主要品種となっています。この間、外国種と交配し輸出用として長粒品種が数種育成されましたがほとんど普及しませんでした。
1970年代後半、日本から「レイホウ」 という品種がGiza173として導入され、1980年 代半ばには作付面積の約4割を占めるまで普及しましたが、1985年に「レイホウ」のみ稲熱(イモチ)病が大発生したため、1986年からエジプト政府が 作付けを禁止しています。それ以降は、イモチ病抵抗性強化が主目標になり、再び長粒品種が作付けされるようになりましたが、エジプト国民には食味の点で好まれていません。
https://www.jica.go.jp/project/egypt/0702252/news/column/081022.html
1917年—Yabani(ヤバニ)という品種名の日本のジャポニカ米を元に品種改良が進められる
第一次世界大戦(1914~1918)を契機に1914年にイギリスはエジプトを正式に保護国化した。日本の品種が導入された時、エジプトはイギリスの統治下にあった。イギリスと日本は1902年に日英同盟を結んでいて、1917年時点は仲は悪くないはず。
1954年—Yabani M47がNahdaと命名されてエジプト政府の栽培奨励品種に
1952年のエジプト革命前(ムハンマド・アリー朝~イギリス支配時期)は植民地型経済で、輸出用作物の綿花を主力としていた。
上の論文の記述からすると「植民地時代の稲作改良は限定的で、宗主国のイギリスやフランスは稲作よりも熱帯産の商品作物開発に熱心で、住民の食料である米や根菜類の改良にさほどの関心を示さなかった。なかでも生産性の低いアフリカイネの改良はほとんど手つかずで、植民地期その後の独立期を通じてアジアイネの改良が細々と進められた。」
1954年はエジプト共和国ができた翌年で、綿花モノカルチャー経済から脱却するための政策が色々と打たれた時期と予想される。エジプトの場合は気候に合って収量の多いアジアイネ(以前から導入していた日本の稲)がそのまま導入されたようだ。
なお昭和29年(1954)の日本は戦後復興期のこんな頃です(吉田内閣総辞職)。………気のせいかみんな知ってる大事件多くね………。
1970年代後半
日本から「レイホウ」 という品種がGiza173として導入され、1980年 代半ばには作付面積の約4割を占めるまで普及。
このころエジプトでは機械を導入した大規模農業化(このあたりをJICAなどが支援していたと思われる)が進んでいた、はず。なので収量も上がっていたはず。
以上からのコシャリに関しての推論
・収量の多い日本米導入以前は、おそらくアフリカ稲とアジア稲を混植していた
・イギリス支配下にあって保護国化されていた1917年に、日本の品種の米(水稲)を導入
・イギリスと関係が悪くはなかった地域のなかに日本があったのと、米国、インド、日本、中国などから250品種の米のサンプルを取り寄せ比較したところ、ジャポニカ米が最も生産性が高く、味が良いと評価されて導入が決まった
・ここで思い出すのがコシャリの来歴のひとつ「第一次世界大戦中(1914~1918、つまり1914年にイギリスが保護国化したエジプトに派兵、かつ生産性の高い日本の品種を導入した1917年、の頃)にエジプトへ派遣されたインド兵から伝わった料理が起源」という説
【千夜一夜】
米料理に短く切ったパスタと具、トマトソース混ぜ合わせ…エジプトの国民食「コシャリ」の今昔2016.10.10 11:28
【外信コラム】大内清
歴史は意外と浅く、現地紙によると、第一次世界大戦中にエジプトへ派遣されたインド兵から伝わった料理が起源だという。米料理にパスタを混ぜるというのは、当時カイロに駐在していたイタリア人の着想だったらしい。
値段が安くて早く食べられ、しかも腹持ちが良いから、当初は肉体労働に従事する男性を中心に広まったようだ。現在ではあらゆる階層の人に愛されている、まさしく国民食だ。
http://www.sankei.com/column/news/161010/clm1610100006-n1.html
導入してそんなに早く結果出ないんではという気もしますが、エジプトは(現在の農業は)三毛作なので、都市部とかだと早いうちから米が多めに出回った……かもしれない(あくまで推測)
ただ、米が入手しやすくなったかもしれない頃に、外国から新しい米料理が伝わった説というのは、何か関係があるのではと思います。
トマトについても同時期に入ってきたという説があります。
エジプトに入ってきたのは、ヨーロッパの植民地支配とともに入ってきたという説と、トルコ料理にトマトを使ったものがみられるところから、オスマントルコのエジプト支配から入って来たという説がある。
美味しいアラビアンナイト―食で知る異国の素顔 (ベストセラーシリーズ・ワニの本) 著者・吉村 作治
P81「トマトはエジプト人の血なのか」より
第一次世界大戦/イギリスが保護国化した頃にコシャリが「初めて伝わった」というより「元から料理はあったが、この頃から材料が入手しやすくなり一般に認識され始めた」のかもしれません。
とはいえエジプト革命直前時点に「都会の若者の味付け」扱いだったトマトは、この頃はまだまだ珍しい野菜だったのかもしれません。日本でもトマトが入ってきたあと一般への普及までに紆余曲折あった訳で、エジプトでも普及までにはいろいろな要因があったのかもしれないと思います。
コシャリがウケてトマトが広まったのなら面白いですね。
・エジプト革命後、1954年にYabani M47がNahdaと命名されてエジプト政府の栽培奨励品種になる。
(・革命前、トマトは地方まで普及していなかったらしい)
・革命後は、輸出用作物ばかり作っている状態から、自国での食料自給率をあげる政策が取られたと予想。ただしアラブ社会主義で作付け統制とかあったらしい(どこまで守られていたかは知らない)
・その後アスワン・ハイ・ダムが1970年に完成。農業用水確保が安定し、機械を導入した大規模農業化などを経て米(及びトマト)の生産量がふえて、コシャリも「簡単に手に入る材料」で作れる料理になっていったのではないだろうか?(あくまで推測)
・1980年代に国営公社の自由化を始め、農業における作付け統制の撤廃、流通自由化がされていったらしいが、1982年時点でコシャリ屋(トマトソースと米)は街にたくさんあったそうなので、実際は70年代ごろから「よくある食べ物」になっていたのだろうと推測。
以上、エジプトのお米とコシャリの普及時期に関する推論でした。
エジプト共和国になった時期に様々な社会構造の変更があったり、たくさんのものがエジプトに入ってきたようです。
料理という生活に密着したものも、社会情勢によって色々な食材が増えたり普及していくのですね。
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