コシャリのはずせない材料というとトマトソースですが、現在、エジプトでのトマト消費量は世界でも上位に入ります。
そのトマトがエジプトに伝わって普及したのはいつ頃か?という事について以前から資料を探していたのですが、最近になって2冊ほどそのあたりに触れている本をも見つけました。
美味しいアラビアンナイト―食で知る異国の素顔
まずはこちら
著者は皆様ご存知エジプト考古学者として有名な吉村作治先生。
発売日が「1991/07」なので結構古い本なので現在とは通説が変わっている可能性もありますが、とりあえず一説としてご紹介。
こちらの本のP81「トマトはエジプト人の血なのか」の章にこういう記述があります。
エジプトに入ってきたのは、ヨーロッパの植民地支配とともに入ってきたという説と、トルコ料理にトマトを使ったものがみられるところから、オスマントルコのエジプト支配から入って来たという説がある。
世界史苦手なのでざっくりとwikiからデータもって来ました。
ヨーロッパの植民地化—1875年にエジプトが財政破綻後にエジプトに与えた膨大な借款を梃子にエジプトを事実上保護国化
オスマントルコのエジプト支配—1517年セリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。
説によって300年ぐらいの開きがあるようです。
ヨーロッパでトマトが食用として使われ始めたのは18世紀(1701~1800)ごろと言われています。その後19世紀になって全世界に広まったという話です。
オスマン帝国(14~20世紀初頭)のトマト普及時期についてはよくわからなかったので保留。宮廷料理にトマトが使われていたというのは定説のようですが、どれくらい一般に普及していたかについてはよくわかりません(まだ調べていないため)
世界の食文化〈10〉アラブ
次にこちらの「エジプト」の章より。
2007/3/1発行なので先の本よりはかなり新しいです(今から10年ほど前)
P188にこんな記述があります。
ところで、一九八〇年代以降の私の経験によれば、都会のみならずナイル・デルタの農村部でも馴染みのトマト。タマネギ風味であるが、もしかしたらその普及は案外最近のことなのかもしれない。
王政を倒し共和国政体を確立したエジプト革命は一九五二年に起きている。その直前、エジプト人の人類学者、H・アンマールが、自分の故郷でもある、カイロから遠く離れたナイル上流のアスワンに近い村でフィールドワークを行った。その民族誌の中で彼は、若者や都会で暮らしたことのある者は、「特別な機会には、野菜や肉を都会風の料理法をまねて調理する。つまり、伝統的な煮炊きの代わりにトマト果汁を用い、それから香料を加える」と記している。この記述に従えば、カイロから遠く離れた南部エジプトの僻地とはいえ、二〇世紀中頃まではトマト風味は知らなかったようである。
1952年(20世紀中頃)時点では「都会風の味付け」という珍しい野菜扱いだったという記述が見られます。
トマト自体はそこそこ昔からエジプトにあったようですが、トマトを料理に盛んに使うように普及したのはそう古くはないのでは?という説です。
エジプトでコシャリはいつ普及?
ここで別記事で挙げたコシャリの普及時期の話を。
当ブログの序文「はじめに:コシャリについて」内のコシャリの起源の項目で詳しく触れていますが、そこからの抜粋で説明します。
コシャリの起源について
1.19世紀半ば(1850年前後)にキチディというインド料理と、イタリア料理のマカロニとトマトソースをミックスしてエジプトで誕生した料理だと言われている
2.第一次世界大戦中(20世紀、1914~1918年)にエジプトへ派遣されたインド兵から伝わった料理が起源だという
という説があります。
また、料理が「コシャリ」という名称になり普及した時期について言及した、料理研究家の方の記事があります。
インドからエジプトへ コシャリの旅
July 25, 2016
https://www.arabfoodsweets.com/single-post/2016/07/24/インドからエジプトへ コシャリの旅
リンク先の記事にて「アラビア語で最初にコシャリという言葉が登場」「いつごろコシャリという料理がエジプトに広まったか」「元はどう呼ばれていたか」などの興味深い考察を読むことが出来ます。
こちらの記事によると「有名な料理家、クラウディア・ローデンが1952年(エジプト革命の年)にパリに移住するまではカイロにコシャリの記憶はない(料理の名前も当時はムジャッダラだったようだ)」「30年後(1982年)にエジプトに戻ってみるとコシャリ屋が無数にあった」
1952~1982年の時期、20世紀中盤以降にこの混ぜ料理は「コシャリ」という名前になり、エジプトで普及したということが推測されます。
ここで最初のトマト普及時期の話に戻りますが、エジプト革命の直前「1952年時点ではトマト味は「若い人・都会風の味付け」という珍しい野菜扱いだった」
エジプト革命(1952年)以前のトマト
ではエジプト革命以前、植民地時代にはトマトはどうだったかについて。
同志社大学の論文データベースより
ムハンマド・アリー朝(19世紀初頭からおよそ150年間にわたってエジプトを支配した王朝(1805年(1840年) – 1953年))のエジプトの工業農業についての論文です。
植民地時代(エジプト革命1952年より前)の主要農作物や農業形態についての記述が見られます。1952から100年以上遡るムハンマド・アリー朝初期のデータなので資料的にどうだろうという点もありますが、ざっくりとしたイメージとして参照します。
要約すると
・1835/36年の数値
・当時は植民地のモノカルチャー経済で国が作付作物を決めていた、輸出用作物が主
・税収の表なので作付面積とは異なるが、主要農産物は綿花が1位で以下小麦・タバコ・亜麻・インディゴ・米・サトウキビなどと推測できる(野菜・果物類はその他の項目に入っている?)
植民地化過程におけるエジプト
1979-12-20
山根 学
同志社商学 巻: 31 号: 3
まとめ(推論)
歴史や政治の話になってくると世界史ダメダメな自分にはどうにも手が出せないのですが、ここまでの資料から考えると、エジプト革命をきっかけに農業・流通関係に変化が起こって、トマトやトマトを使う料理が一般にも広く普及していくことになったのでは?という推測が立てられます。
→トマト自体は19世紀かそれ以前からエジプトに伝わってはいた
→エジプト革命1952年以前、トマトは大々的に作ってはいなかった(ムハンマド・アリー朝では農産物輸出事業を独占し、その利益を財源としていた為、農作物は好きに作って自由売買できる社会情勢ではなかった?そのためトマトでの味付けは都市部などに限定されてさほど広まっていなかった?)
→ムハンマド・アリー朝が終わった1953年以降に徐々に社会主義経済~自由経済(1980年代・国営公社の自由化を始め、農業における作付け統制の撤廃、流通自由化)に移行し、その過程でトマトがめっちゃ広まった?
→同時にコシャリ(トマトソース使う現在の形のもの)も広まり、店もどんどん増えた(1982年頃にはこの状態)
といった流れだったのではと推測されます。
(小作農制度が残っていたため、農家が裕福になったかについてはまた別の話)
コシャリが流行する過程に米の収量アップ(JICAの資料参照)も絡んでいるのではと推測。(1954年にジャポニカ米がエジプト政府の栽培奨励品種となりその後も品種が変わりつつエジプトで栽培されている)。
というわけでお米導入に関しての記事を書きました。
農業(水稲)的に重要な出来事というとアスワン・ハイ・ダムですが、これは1970年に完成。この少し後に日本からおいしい品種が導入され、作付け4割がレイホウ(Giza173)になったとか。
以上がここまでの推論となります。
実際にどうだったのかはわからないのですが、この方向でもう少し調べられればと思います。
コメの場合は日本から品種を取り寄せていたため比較的記録を辿りやすいのですが、トマトはまずどういう品種を育てていて、どこからどういう苗をいつ取り寄せて育てたのか、現時点では全く分からないので、そこらが分かればもう少し調べられそうです。調べられる気がしない…。
エジプトでトマトの生産量自体はどんどん増えているそうですが、それでもトマト缶などを輸入しているそうです。嗜好の問題か、必要量に生産量が足りてないのか、どちらなんだろう…。
参考資料
国際農林業協力 – 国際農林業協働協会
『国際農林業協力』Vol.40 No.3(通巻188号)(2017年11月)
JAICAF 公益社団法人 国際農林業協働協会の刊行物より
「エ」国政府は、1950年代から社会主義的な統制経済政策を実施してきたが、経済の停滞打開のため、1980年代から経済の自由化を推進しており、国営公社の自由化を始め、農業における作付け統制の撤廃、流通自由化を進めてきた。
政府の自由化政策が進み、経済成長が進む一方で、権威主義による公平さを欠く分配からの脱却が、今回の民主化への動きとして特徴付けられるのではないかと思われる。http://www.jaicaf.or.jp/reference-room/publications.html
http://www.jaicaf.or.jp/fileadmin/user_upload/publications/kyouryoku3503.pdf
※上のクラウディア・ローデンさんは、エジプト革命の年にエジプトを離れ、経済が自由化された辺りに帰国したようです。
※ムジャッダラ………シリアでは現在、レンズマメ炊き込みご飯+甘く炒めた玉ねぎかけご飯を指す
日本の場合
日本の場合トマトが伝わったのは江戸時代(長崎)といわれていますが、日本人に合う品種が見つかって一般に普及したのは昭和になってからという話なので、普及までにはどこも時差があるようです。
下記のトマト普及についての参考資料に出てくる昭和10年は1935年なので、エジプトと大差無いか少し早いくらいの時期、20世紀(1901~2000)はじめから中頃に日本の一般の食卓に普及したようです。
トマトというとケチャップ。そちらの日本での普及度を調べてみると「昭和10年にはチキンライスをケチャップで味付けすることは一般的になっていたようです。」という記述もみつかりました。
参考資料1
野口のタネ/野口種苗研究所
「野菜の種、いまむかし」 第二回「トマトの話」
掲載誌『野菜だより』2008/秋号/P94,95
参考資料2
昭和10年にはチキンライスをケチャップで味付けすることは一般的になっていたようです。
ケチャップは明治期に日本に上陸 使い方は日本風にアレンジ 参考資料:トマトケチャップの誕生
ハインツ日本株式会社2009年11月18日 15時25分
あと、日本で戦後に広まって現在定番になっている野菜についても軽く調べてみたところこのような記事を見つけました。
ピーマン は 戦後以降の食べ物
正確には、16世紀?あたりにはピーマンは日本に伝わっていたそうですが
全国的に栽培されるようになったのは、戦後です。
全国的に普及する事になった要因には
当時の経済統制の対象に、ピーマンが引っ掛からなかった。
エジプトでも、もしかしたらこんな感じで新野菜が農家に広まっていったのかもしれないですね。
日本の「西洋野菜」
一時期に沢山の新野菜が入ってきた時期として、明治政府が西洋文化導入に努めて育成を奨励した頃があります。このころに色々な野菜が日本に入ってきました。(明治は1868-1912)
洋食はこの新野菜とともに明治期に作られていきます。
その後大正(1912-1926)~昭和初期(1926-1945(終戦))を経て、戦後になります。
(このあと1952年にエジプト革命)
終戦後の昭和になってハクサイ・キャベツ・タマネギ・ジャガイモ・パセリ・トマト・レタス・セロリ・花野菜(カリフラワー)・ブロッコリー・子持ちカンラン(芽キャベツ)・ピーマンなどが一般に広まり、今では西洋野菜と意識されず、食卓には定番の野菜となっています。
こうして見てみると、以前から外来野菜が導入されていても一般に広まるのは、社会情勢の変化などのきっかけがあり「自由に作れる・料理が広まる・美味しいものだと認識される」という条件が必要なのだと思いました。
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